言われた通り。 俺としては珍しくも寄り道なんかせずに真っ直ぐ部屋へ帰ってやった。 左手に、奴の望み通りのものを持って。 『飼い馴らされてる自覚と飼い主観察録』 ノックもせずにドアを開ける。 「おかえり」 驚きもせずに入ってくるコイツの余裕の表情がちょっとだけ気に入らない。 「おらよ」 言って、左手のビニール袋を放ってやった。 受け止め損ねるはずがない。 「手を洗って来い。切り分けよう」 滅多にねぇくらいニコニコしながら袋の中身を確認している。 あ゛ー、ったく。 たちが悪い。 包丁がないので、フルーツナイフを取り出す。 長方形のその包みを丁寧に剥いで、中身をさらしてまた笑みが深くなった。 丁寧に、均等に切り分けては用意していた小皿に移した。 そうして残りをまた丁寧に包み直した。 ナイフにうっすらついた羊羹の滓を指に拭い取って舐めやがった。 思案顔になり、次には見たこともないような笑顔になった。 いそいそとナイフをカバーに収め、急須から緑茶を湯飲みに注ぐ。 湯気の立つそれを満足げに眺めて、やっとこちらを振り返った。 さっきから一歩もその場を動いていない俺を見つけてポカンと口が開く。 「なにやってるんだ?」 「んー」 「手は、洗ってきたのか?」 「まだ」 「なにやってたんだ」 「お前」 「は?」 「見てた」 「・・・・・・・・・」 「ナイフに付いたのまで舐めんなよ、貧乏くせぇな」 「う、うるさい」 おーおー。 見る間に顔が赤くなっていく。 「は、早く手を洗ってこないか!」 「へーへー」 俺はやっとその場から離れた。 洗面台に向かい、蛇口を捻る。 両手を水にさらす。 石鹸を掴む。 泡立てては擦り合わせる。 蛇口からの水は流しっぱなし。 いつも雲水に怒られるが、どうにも治らないねこれは。 洗っていると、居間から雲水が俺を呼んだ。 「あごーん」 「あんだよ」 「まだかー?」 「・・・・・」 俺はさっさと泡を洗い落として蛇口を閉めた。 タオルを手にしたまま居間に向かう。 「先食ってりゃいいじゃねーか」 「せっかくお前がいるんだから、一緒に食おう」 笑顔。 超・笑顔。 絶世の笑顔。 とろけるような笑顔。 そんな顔を俺に向けるな。 眩しいから。 サングラスの奥で目を細めた。 タオルをどこぞに放り投げてから雲水の正面に腰を下ろす。 雲水はタオルを放った事に対して何も言わなかった。 いつもなら小言の一つも飛んできて、すぐさまタオルを拾いに行くのに。 羊羹一つでこんなにイカレちまうコイツが、あぁ。 どうしようもなく愛おしいから。 俺の前に小皿と湯飲みを寄越す。 ニコニコと。 やめろよ、そのアホ面。 「さぁ、食おうか」 「ん」 雲水がするように、俺も素直に手を合わせた。 食事の前に手を合わせるなんぞ、どれくらいぶりだ一体。 雲水は木匙を器用に振るい、一切れのそれを口に運んだ。 ・・・・・。 あぁ。 勘弁してくれ。 無言で次々口に運ぶ。 いっそ切り分けないで一本丸々噛り付いた方が早かったんじゃねぇのかってくらいだ。 俺はもう一口たりとも口に出来ない。 腹はそこそこ減っているのに。 雲水がそれはそれは美味そうに食っているのに。 もう、いっぱいだ。 何もうけつけない。 「食べないのか、阿含」 「あ゛ー、食う?」 「え」 木匙で一口大に切り分けて、乗せて、突き出す。 「あー…」 俺が言えば。 「あー…」 雲水も釣られて口を開ける。 無防備すぎるぜ、雲水。 人前じゃ、絶対ぇしねぇ、この瞬間だけの。 「…−ん」 「美味い?」 「ん、んまい」 「買ってきた甲斐があるぜ」 「あぁ、ありがとう」 この一言のために。 この笑顔のために。 この瞬間の雲水に会うために。 俺はコイツのために使い走りを引き受けてやる。 断れない。 断れるはずがないだろう。 断れるか? この雲水に会えることがわかっていて? この笑顔に会う機会を自らぼうにふるって? 「ありえねぇ・・・」 「なに?」 「なんでもねぇよ」 コイツは知ってるんだろうな。 俺のことを知ってるんだろうな。 俺のこの感情を知ってるんだろうな。 知ってて、やってるんだろうな。 知ってて、強請ってくれてるんだろうな。 別にいいよ。 正直嬉しいから。 俺にあるまじき事にお前に使いを乞われることは嬉しいから。 薄いカーペットの上を這って、雲水の腕を引く。 雲水は引かれるままに俺の方へ上体を倒してくる。 「んっ」 口の中は甘ったるかった。 「こら」 「これくらい貰ったっていいだろうが」 「まだ残ってるんだからフツーに食えばいいだろう」 「違ぇって」 もう一度その甘い唇を啄ばむ。 「お使いのご褒美」 「・・・あぁ」 それなら、と言って。 雲水は自分から、俺の唇を舐めやがった。 「くれてやる」 笑った。 あぁ、もう、だから。 勘弁してくれ。 20060331.キザキ 20060802.望月こだま様へ お中元、じゃないですけど、日頃の感謝を込めて。